Kazyの日常日記

2022-3-20 : In the hospital as being patient.

 ここは飛行機の中だろうか。夜の間、ずっとエンジンの音のように「ボー」という文字がお似合いの音が鳴っている。

 この音はカナダに留学に行く時に嫌なほど長時間耳にした音。いわばもう聴き慣れた音。

 時々、シートベルトを絞めるようにと、警告灯が出る。その時の音も、もう聴き慣れた音だ。

 しかし、何かが違う。全身麻酔から覚めた時には、前日に見た天井。

 病院の中だった。


 病院の中は飛行機と違って、全然空気の重さが違う。病院の方が数倍重たい。なぜだろうか。6人部屋の中で私は比較的軽い病気の入院だが、他の人たちは生命に関わっているからだろうか。

 病院の病室は、飛行機で言うエコノミークラスに大きなベッドを付随させたプランのようだった。病室をエコノミークラスのベッド付きで言うなら、些か快適に思える瞬間もあった。

 快適さで言えば問題はない。


 しかし、一つ問題点があるとするならば、人間としての常識に欠如した人が多いと言うこと。

 敬語が使えないお年寄りが多すぎる。

 看護師の方達は、そのお年寄りさん達を看護するのが仕事であるがために、どれだけ言葉が悪くても、その”お客様”を看護しなくてはいけない。

 これはどうなのかと思う。

 日本には、海外に滅多に例を見ない美しい言語の形態がある。『敬語』だ。

 敬語というのは、歳に関係なく、初めて会った人、何かをしてもらった時、相手に敬意を伝える時に使う言語。重要なのは、「年に関係がない」ということに関して。これだけで、話が1時間も延長できるくらいに深い。

 いくらお年寄りだろうが、何かをしてもらった時には、「ありがとう」の気持ちを伝える時には「ありがとうございます」を使った方がいいと思う。個人的な主観だが、敬語を使うのと使わないので全然意味合いが変わってくると思う。

 ましてや、彼ら、彼女らは看護師がいないと生きていけない。生命に関わっているので、なおさら使うべき瞬間というのが多いと思う。

 私も、全身麻酔が効いた手術の日、体が重たく、全ての動作ができるわけではなかった。看護師がいないと普段の生活も営めない。そういう時に使うのが敬語。

 ”自分ではできないこと”を相手にしてもらって文句を言う人もいるが、それは、同じ日本人として恥ずかしいと常に思う。病室ではそんな場面が何回もあった。

 この構造ができたせいで、ある問題も生まれた。看護師さんは相手に何かをしたのに、「すみません」と言う。反対に患者の方は、それに相当する感謝の意を伝えきれていない。この構造は良くない。絶対に逆であるべき言葉がここでは逆転している。

 敬語を使わないだけでも、意味合いが変わってくることを重々承知してほしい。嫌なら日本人としての一生を早く終えてほしい。言葉は悪いが、ここでは”老害”という言葉も似つかわしいくらいだ。


 話は変わり、敬語に関していえば、何か自分がミスをした時には「すみません・ごめんなさい」という言葉も重要なのだが、ここで「ありがとうございます」という言葉を使えるとなおさら良い。

 相手からすると、何かミスをした時に、この人のここを治すべき詳細なポイントを”わざわざ時間を割いて”教えてくれている。時間を割いてというのが肝。大事な人でなければ時間なんて割きたくないだろう。このブログでは何回も言うが、時間というのは有限だ。

 しかも、ミスをするから前に進める。ミスを教えてくれたのではなくて、「ミスを教えてくださった」という敬語を使うのも正しいと思う。

 ミスをしない人なんてこの世にいない。ミスをする程度やレベルが違うだけで、ある一定の人には、自分のしたミスというのは見えてない。

 そして、それらに気付いても言ってくれる人は少ないだろう。


 敬語の素晴らしさを感じた瞬間だった。

 一生を全うするまで、ずっと敬語は使っていきたい。そうした方が、きっと素敵な大人になれる。私の祖父母も敬語を使える人たちだった。他の人たちよりもずっとかっこよかった。

 適切にコミュニケーションを使い分けることのできる大人はお洒落だ。


 もう少しでこの飛行機は「退院」という目的地にオンタイムで着くそうだ。このエコノミー症候群のように感じる懲り懲りな日々が終わる。

 看護師並びに医師に感謝の意を込めたいフライトだった。

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